問いの集約
核となる体験は、起こそうとした瞬間に失われる
日本の芸道が示す「自分にしかできない演奏」への道
日本の芸道・武道は、観客に受ける「成果」よりも、演技者・実践者が身体を通して変容していく過程を重んじてきました。西洋近代のテオーリア(観察・理論)が評価の視点を強めるのに対し、日本のプラクシス(実践)は、まず自分が体験することを起点にします。意図や演出の力で評価を得ようとした瞬間、それは観客のためのパフォーマンスへと収束し、核心から離れてしまう。稽古とは、心身の分離をほどき、舞台と観客、自己と他者の境界が薄れ、場から「おのずから」音と所作が立ち上がる条件を整える営みです。本稽古では、その核心を言葉と実感の両面から共有しました。
この稽古で立ち上がった問い
- ・「核となる体験」を求めることが、なぜその体験を遠ざけてしまうのか。
- ・観客の評価に向かう態度と、実践者の変容に向かう態度は、演奏の何を決定的に変えるのか。
- ・無心とは何か。
- ・自他一如はどのように立ち上がるのか。
- ・「自分にしかできないこと」は自己主張ではなく、どのようにして“おのずから”現れてくるのか。
内容の記録
Ⅰ.日本の芸道における核心
・西洋近代のテオーリア(観察・理論)は、観客の視点と評価を強め、演者を「成果のための手段」にしやすい。
・日本の芸道はプラクシス(実践)を中心に置き、演者自身の変容と鍛錬を第一義とする。
・舞台と観客を分けない「分離のない芸能」は、安易な参加型ではなく、他人の期待に応える態度を手放したところに開く。
・身体と心、自分と他者の区別が薄れ、場に生じるものを「分かち合う」経験として成立する。
Ⅱ.無心と「おのずから」
・その時その場で「なすべきことが向こうからやってくる」感覚に従うこと。
・稽古を積むと、自己が動かすというより、場が所作や方向を指示するような感覚(外部シグナルの受容)が分かるようになる。
・「離見」は日常的な我見から離れ、演者の我が一体感の中に消える状態であり、単なる客観ではない。
・「離見の見」は、その離見の状態すら見渡す段階であり、見前心後(背後感覚の拡大)のような体感を伴うことがある。
Ⅲ.自他一如
・自他の境界が曖昧になり、外が内に入り、内が外へ流出するような感覚が生まれる。
Ⅳ.自分にしかできないこと(狙わず、整える)
・「自分にしかできないこと」は、自己表現の誇示ではなく、無心と自他一如の条件が整ったときに“結果として”立ち現れる。
・核となる体験を「しよう」とすると、分別と評価に引き戻されるため、稽古では体験を起こすのではなく、起こり得る条件を整える。
上記内容の理解を深める動画
※個人や具体的状況に関わる記述は公開していません。稽古の学びを抽象化し、問いとして共有しています。
※合同稽古とは、演奏ジャンル(長唄・端唄・小唄・地唄・民謡・津軽三味線・語り物 など)を問わず、さまざまな演奏者が集う場です。そこで扱われるのは、技術や肩書き、形式の優劣ではなく、音楽・芸術・伝統芸能に共通する根源的な問いです。理論の継承と実践を往復しながら、その問いを参加者どうしで探求していく場として開かれています。
※ここでは小難しい言葉が並べられていますが、当日の稽古では一般的な知識に落としこんで分りやすくお伝えしています。
初公開:2024-10-20 / 最終更新:2026-01-11